「立ち上がってごらん」と言われて君たちは立ち上がれるよね。でも私は立ち上がれないんだ。なぜだか分かる?
授業でのお説教場面だ。
生徒たちは椅子に座っている、私は教壇に立っている。
”立っている人は絶対に立ち上がれない!”
私たちは生まれてすぐに立ち上がらない。寝返りをうちはじめ、ハイハイをし、何度も尻餅をつきながら必死で(記憶がないので多分)立ち上がる。そして、色々な何かができるようになる。
残念なことに、一度立つことができると、意識は「こけないように」と向いてしまう。だって、せっかく立ったのだから・・・
ここからは脳内の学習的な意識の話。
身体的な「こける」は脳内的な「間違う・失敗する」として話す。「こけたくない」は「間違えたくない・失敗したくない」である。
人はこけたとき、何かにすがったり、人の助けを借りたり、または、全身を使って立ち上がろうとする。何度も経験するうちに何かを体得する。つまり”成長”である。
「わらにもすがる思いで」という例えがあるが、こけると「わら一本」であってもつかんで立ち上がることができる。こける前より「わら一本」アイテムが増えているのだ。
学校というのはもしかしたら、生徒を「こけさせる」装置なのかもしれない。社会というものも我々を「こけさせる」装置なのかもしれない。こけるべき時にこけないと、変に踏ん張ったり、ごまかしたり、嘘をついて避けてしまう。大けがをするときは大体そんな時だ。
または、難なくそれから逃れたと思っても、いずれまたやってくる。次は更に嘘やごまかしを強固にしないといけなくなる。
今の世の中、デコボコの道はほとんどない、道も舗装され、床でも平らにして「こけにくく」してある。こけそうになるとクレームがくる。こける側の成長するチャンスは失われている。
「今は安心して間違えなさい。授業中にいくら間違え、失敗しても、大けがはしません。私が何回もこかしてあげるので、何かつかんで立ち上がってきなさい。成長しなさい。」
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