釈徹宗先生法座

去る5月29日宇部市の渡辺翁記念館において浄土真宗本願寺派自照会50周年記念が開催され、法話として釈徹宗先生、コンサートに二階堂和美さんが登場されました。運よく参加することが出来ました。
春休みに子供を高校に迎えに行ったとき、早く着いたので、近くのお寺にお参りをしました。境内を歩いていたら、なんとなく光を感じて呼ばれているような気がしたので、そちらに向かっていくと、掲示板にポスターが貼ってありました。そこには見慣れた釈先生のお顔が!すぐに写真に撮って釈先生にメール差し上げたら、「そうなんですよ。月曜日だったのでお受けしました。残念ですが日帰りなのでゆっくりお話しできません。」とのお返事。ご存知の方も多いと思いますが、相愛大学教授、如来寺住職であり、私塾練心庵、老人グループホーム「むつみ庵」を運営されていらっしゃいます。同時に執筆活動、テレビ出演(シブ5時・100分de名著)、ラジオ等超多忙なのです。宇部に来ていただくなんてラッキーです。折しもその前の週には河合隼雄賞を受賞なさってましたので、お祝い申し上げなくてはとの思いで行きました。
演題は「なんでお念仏なの?六次のみ名を称えつつ」でした。1000人を超える来場者でした。

導入は、50周年をお祝いなさり、続けるということは先代からのパスを受け取ることであるということを、お仲間の元ラグビー日本代表の平尾剛さんのお言葉を引用され説明されました。(ちなみに講演中は平尾選手のお名前は出されませんでした)あの楕円形の難しいボールをパスするのに、雑に出したパスと、心を込めて出したパスは受け取った感触や、次のプレーが違うそうです。きちんとパスを出す方も受け取る方も誠実にしなければ続かないのでしょう。このお話しを「知恩報徳」という言葉で説明されました。

また、ユダヤ民族がなぜ滅びなかったのか?という問いの答えの一つとして、ユダヤ教があったからだと言われました。あれほどの虐待を受け、放浪せざるを得なかったユダヤ民族は、強烈な行動様式を教えに持つユダヤ教によってイスラエルの地へ逃れることが出来たのだと言われました。

また、鳥取の念仏者源佐を紹介され、日常の生活の中で悟りを開くことができるのだと言われました。”世の生業にいそしむ”という言葉を教えていただきました。
帰って調べたことを記載しておきます。(ウィキペディアより)

因幡の源左(いなばのげんざ、1842年(天保13年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月20日)は、浄土真宗の教えを日常に体現した妙好人の一人とされ、鳥取県因幡国青谷町(現在は鳥取市に編入)に在住した農民である。江戸時代後期の天保に生まれ、18歳の頃、父親と死別する際に、遺言で「おらが死んだら、親様をたのめ」といわれ、寺に参り法話を聴聞し始める。ある日、山へ牛とともに草刈に出かけ、五束の草を刈り取って、四束を牛に担がせて一束を自分で担いで帰ろうとしていたが、重くなってその一束も牛に担がせたとき、阿弥陀仏にすべてを任せると良いのだということに気づき、信心をいただいたという。

その人生は父親が亡くなった後も苦難が多く、息子二人が精神的に弱かったり、火災にあったりしたが、それらを苦にすることもなく、飄々とした人生を歩んだ。源左が著名になったのは、強盗が集金した金を盗ろうとした時、延々と諭しながら歩き、ついに盗れなかったことを警察で話した、その話題が新聞に載ったことからであった。後年納税の推進や祖父母の養育などで緑綬褒章を受けている。その言行は、浄土真宗の法味に富み、のちに聞書が多数出版されていった。ある日、突然の雨にあって帰り、住職に「えらいめにあったのお」と言われて、「鼻が下に向いて付いているでありがたい」と言ったと言う。

彼の口癖は「ようこそようこそ さてもさても」というものであったという。その意味は、この私をたすけるとよくぞ誓ってくださった、さてもありがたい、というほどのもの。

体に染みついた行動様式はいざというときに自分を助けてくれる。スポーツの世界などは顕著であろう。イチロー選手や五郎丸選手のルーティーンなどは分りやすい。
お念仏にしてもまずは称えることが先である。
最近は必ず「何のために?いいことがあるのか?どういう意味か?」が分らないと行動しないという生き方をしている人が多いように思う。いざというときに弱い。パニックになる。

お掃除にしてもそうだと思う。”世の生業の中”にある行為を”いそしむ”ことができているか?損得勘定抜きに、ゴミを見たときに反射的に拾える行動様式が備わっているのといないのとでは、様々な場面において瞬時の対応が変わってくると思う。考えて行動していては間に合わない局面が多々日常にはある。そして、それは多くの場合致命的だ。
逆に、長時間の忍耐を強いられる場合も日常の行動様式だからこそ持ちこたえられる場面がありそうだ。まさにユダヤ民族のように。

釈先生は宗教学者ですので、様々な宗教の違いや、同一性も見抜いておられます。実際にパレスチナなどにも行かれて、イスラム教などにもお詳しいです。人間が生きるということと宗教が共にあることを教えてくださいます。

つくづく思うのです。人間抜きの思想がいかに無意味で危険であるかということを。

私は神道で数学者です。関係ないといえばそうかもしれません。しかし、そうとは思えないのです。理由は分りません。まだ、消化しきれていない部分もありますので追々数楽の会で研究していきましょう!

お祝いに松原酒店で購入した「貴」を休憩時間に勝手に楽屋に差し入れに行きました。(堂々としていると怪しまれませんよ!(^^)!)あまりお酒は飲まれないのですが・・・ ^^)
釈先生ありがとうございました。またおいでください!


 

6月のEテレ100分de名著は「維摩教(ゆいまきょう)」です。コメンテーターは釈徹宗先生です!

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コメント: 2
  • #1

    あだちすすむ (水曜日, 07 6月 2017 11:28)

    藤野先生 こんにちは。
    長府博物館で開催 田上菊舎 企画展に配達の途中に立ち寄りました。
    昨年、釈先生の講演を載せていただきましたお礼をコメントしましたがアップしておりませんでした。
    地元紙では簡単な内容をじっくり載せていただきありがとうございました。

  • #2

    藤野貴之 (木曜日, 08 6月 2017 10:22)

    あだち 様
    駄文をお読みいただき有難うございます。知的文化に触れる機会が少ない山口県で、少しでもお裾分けができれば嬉しく思います。