授業の一コマ

2時間目の授業中、日頃元気の良い、よく発言する生徒の元気がない。
私「どうかしたんか?」
生徒「大丈夫です!」
しばらく授業をしているとみるみる血の気が引いていくように見えた。
私「どねーかあるんか?」
生徒「大丈夫です!」
私「大丈夫に見えんけーいいよるんじゃろうが!ムカムカしてないか?」
生徒「吐きそうです。」
私「じゃろうな。」
すぐさま、生徒に近づき、怪しい施術を開始。授業は中断。ほかの生徒はじーっと見ている。
私「どねーか?」
生徒「少し楽になりました。」
見ると血の気は戻り、笑顔も出てきた。冗談にも笑う。その後の授業は難なく過ごせた。

後で聞くと、朝ご飯を食べた後すぐにクラブの朝練に出て、1時間目が体育だったようだ。
私のような不真面目な人間はそうはならないが、真面目な子ほど危ない。
体育も一生懸命やったのだろう。

教師という生き物は不真面目な生徒は良く目につき、指導する習性を持っている。


話しの筋は少し違うが、重大事件を起こした生徒についての周りのその子についての印象は、
「普通のあいさつをするいい子でした」「普通の印象ですね」「まさかあの子が・・・って感じです」というものが多い。
教師に限らずそんなものなのかもしれない。

授業で大切にしているひとつは、「あなたは人間なのですよ」というメタメッセージである。
「自分を大切にしてくれる人がいる」これほどの安心感はない。
人は自分が人間であるということは、実は自分ではわからない。他のひと、ものとのかかわりの中でそれを実感するのだ。
事実その後のその子とのコミュニケーションはスムーズになってきた。板書をする回数も増えた。
ほっといても勉強をする。ほっといても賢くなる。人間になれば学びたくなる!

また、他の生徒は目の前の教師が一人の生徒を大事にしているという姿を目の当たりにする。
あの生徒に自分を重ねる。思春期の同化する能力はかなり高い。自分が大切にされているような気になるのだ。
同級生がこっぴどく怒られるのを聞いて自分が怒られているような気がした経験を持つ人も多いのではないか。
その感じを受けたくないから、「怒られているのは自分ではない」と言い聞かせて、「分断」をする。
「あの話は私には関係がない。」こんな生徒が多い。
いじめの根っこがこの「分断」ではないかと考え始めている。最近を取り巻く環境にこの「分断」が蔓延っている。

ところで、体育って「からだをはぐくむ」って書くんだよなー。部活って何のためにするんだろうなー。
部活して体育して体を壊していたら本末転倒ではないか?という疑問が更に大きくなった一コマでした。