思いは重い?

なぜ、勉強しているのに賢くならないのか?なぜ、あれだけ暗記したのに覚えていないのか?経験したことはありませんか?という話をした。
「学ぶ」ときには、心を、コップでいう上向きにしなくてはいけない。これは姿勢で解決できることが多い。いわゆる「本腰を入れる」姿勢である。それができていないと話は入らない。いわゆる「はなしにならない」のだ。
それができているのに・・・というお話。

 

心のコップは上に向いているのに、ちゃんと聞いているはずなのに、なぜか言われたことが頭に入っていない。悪気がないだけに残念な話である。それでテストの点数が悪ければ「頭が悪い」というラベルを張られたり、自分で張ったりする。

 

頭の中を見ることはできないので仮説を立てた。
それは、心のコップの中が「思い」でいっぱいになっていないか?ということだ。人は色々な思いが心にでてくる。しょうがないことである。これをきれいに掃除しないと心にこびりついて、いっぱいになり、何も入らなくなってしまうのではないか?

 

「思う」のは「私」である。しかし、「学ぶ」のは「人・書物」からである。

本を読んでいて、いろいろ思い出して、目は字を追っているけれど、内容がさっぱり入ってこないことを経験したことはないだろうか?
人の話を聞いていて、ある言葉に引っかかって、いろいろ妄想しているうちに次の話になっていたことはないであろうか?

アレである。

 

特に君たちは「思春期」と言われる時期である。「思い」が春のように「咲き乱れて」いるのではないだろうか?

私は以前より「感想文」が好きではない。ましてや「思い」は滅多に人に伝えるべきではないと考えている。

文字通り他人の思いは重い。

 

しかし、子供たちは小中学校で、事あるごとに感想文を要求されて、偽の自分の思いを演じなくてはならない。他人に読まれることを前提とした、評価をつけられることを前提とした「思い」である。生徒は感想文が苦手だという。当たり前である。

「思う」ことに慣れさせられ、「学ぶ」ことに慣れていない者が学習をした場合、結果は明らかである。

 

「学ぶ」ときには、「思い」はしまっておきなさい。「学び」と「思い」は別である。